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チーム紹介
城子 大氏とジョン・ポント氏の思い出を残すため、2008年に作成されたこの記事を当時のままにしておきます。 チームとして忘れることの出来ないおふたりのストーリーが記されています。

PHEASANTSにゆかりの深いOBOGの方でお亡くなりになった方が他にもいらっしゃいます。
その方の写真や戦績、思い出などによる記事を募集しております。次の方の記事を頂いた時点で故人を偲ぶページを作成させて頂きます。


2008年秋季シーズン、宣言


■2008年シーズン秋季公式戦、
武蔵大学Pheasantsは,「42番」の喪章デキャルをつけて戦います。■


42番

●ふたつの悲報




今年2008年5月と7月に、我々フェザンツは悲しい知らせを二度受けることになりました。


2008年5月、我が武蔵大学アメリカンフットボール部の卒業OBである城子 大(しろこ まさる)氏が、 亡くなりました。まだ29歳という若さでした。


そして2008年7月、現在のフェザンツのフットボール理念の基盤であり、「Pheasantsの師匠の師匠」でもある、John Pont(ジョン・ポント)氏が亡くなりました。
チームは、おふたりの相次ぐ悲報に衝撃を受けました。


08年のフェザンツは奇しくもふたりの背番号である「42」を背負うことで、ふたりの意志と思い出を背負い、2008年度のリーグ戦を戦います。




●ふたりの思い出




■城子 大 君






城子 大 君


◆フィールドを疾駆した4年間
城子君は、1999年、武蔵大学フェザンツに入部をしました。高校時でのフットボール未経験者ながら、 すでに1年生時から頭角を現しディフェンスバックとして試合に出場しました。 大変ハードタックラーな選手として他校からも恐れられ、1〜2年をCBとして、3〜4年をFSとしてレギュラーメンバーとして出場、 ディープゾーンの中心選手として活躍をしました。


寡黙なキャラクターでしたが、激しいプレーで敵を黙らせ味方を鼓舞するプレースタイルで、信頼感のある名選手でした。窮地に数々の、起死回生のインターセプトやファンブルフォースでチームを救い、チームを牽引しました。


社会人としてチームを巣立ち、これからというところでの夭折は、誰にとっても悔やまれることでした。


ご家族の皆様に写真をお借りすることができました。フェザンツ部員・OBのみならずフェザンツに関わる皆様の心に、城子君の躍動する姿が残るよう、謹んでHPに掲載をさせて頂きます。


◆城子 大 〜おもな選手キャリア記録〜
 

1999年 武蔵大学入学
入部理由 「かっちょいいから」
秋季リーグ公式戦 インターセプト数、計7回
(うちインターセプトリターンTD1回)
春〜夏の四大戦および練習試合でのインターセプト数、計4回
レシーバーとしてのTD、計3回
4年時、ディフェンスリーダーとして年間ディフェンスMVP獲得
関東大学3部オールスターに選抜され、
バーシティボウルにFSとして出場

1999年秋、VS東京国際大戦にて


◆城子 大 氏 のお墓参りをなさる方は

日野公園墓地
京浜急行「上大岡駅」又は、
横浜市営地下鉄「港南中央駅」からバスで10分
入り口から一番左の道を上がり「3」の看板のところで左の小道に入り、3段目の「穏」と彫られた墓石です。


 

■ジョン・ポント 氏






ポントコーチ


◆ポントコーチとの関わり
ジョン・ポントコーチと武蔵大学フェザンツは、直接深い交流があったわけではありません。 しかし、「ジョン・ポントフットボール」とも言われる土台の強固な、組織全体をブラッシュアップして組織で、 チームで戦う理念は、教えを乞うた日本フットボール界全体の財産ともいえるでしょう。 武蔵大学は、社会人チーム学生援護会ROCBULLさんとのつてから、2002年より本格的にポント氏のフットボール理念を参照・導入しはじめ、 戦績の上昇はもとよりチーム基盤の強化をすすめてきました。


◆キャリア略歴
ジョン・ポント氏は、1927年11月13日、アメリカ合衆国オハイオ州のカントンに生まれ、マイアミ大学オハイオ(レッドホークス) にてRBとしてその大学キャリアの中で2457ヤード獲得の伝説的活躍をしました。これは2008年現在のレッドホークスの歴代RBの中でも歴代7位にあたり、 歴史上稀有の名プレーヤーであったと言えます。当時のポント氏の42番の背番号は、レッドホークス初の永久欠番になりました。(2007年にベン・ロスリスバーガーの7番の永久欠番により復帰)


 その後グリーンベイ・パッカーズなどで選手としてのキャリアを経験しましたが、母校の要請により(こちらも伝説的な)エイラ・パーセジエン(Ara Parseghian)の元でマイアミ大学のコーチとなり、1956年には 28才でヘッドコーチになりました。 このとき全米で最も若いヘッドコーチでした。1957と1958年にはマイアミをMAC(Mid American Conference)のチャンピオンシップに導きました。
 マイアミから、Pont氏はイエール(1963〜64)のヘッドコーチ、インディアナ(1965〜72)で8シーズンとノースウェスタンで(1973〜77)の5年のヘッドコーチを務めました。 彼の1967年のインディアナ大でのチームはビッグテンチャンピオンになり、さらにローズボウルへと導きました。そしてAmerican Football Coaches Association が選ぶ1967年のCoach of the Yearに選ばれました。


 そして1975〜80年はノースウェスタンのアスレティックディレクターとしても勤めました。また1984〜1989年のハミルトン高校、 1992年までのマウント・セイントジョセフカレッジでの指導など、『フロンティアスピリッツ』を持って、より若くより小規模のチームを育てあげる活動に携わってきました。 マイアミアスレチックの殿堂に加えて、Pont氏はMACミッドアメリカカンファレンスの栄誉の殿堂に入れられて、そのうえ1992年にコーチ協会のマイアミのCradle  (コーチのゆりかご「コーチのコーチ」という意味の栄誉)に入れられました。また、インディアナ大学の栄誉の殿堂にも入れられました。
(マイアミ大学オハイオ校HPより一部引用)


※写真は学生援護会ROCBULL時代のものです。


◆そして日本へ
そして1992年より、日本で社会人チーム「学生援護会ロックブル」のヘッドコーチとして、準加盟の5部から、現在のX1部までチームを引き上げました。
 現在のフェザンツのコーチのうち数人が、この中でプレーヤーやアシスタントコーチとして指導を受け、フットボール理念を学びました。 2002年シーズンより、武蔵大学へロックブルOBがコーチ入り、わずかながらも見よう見まねながらも、ポントコーチの理念と理論の導入が始まりました。
 2003年にはフェザンツがチームとしてロックブルの練習見学をさせてもらい、武蔵の選手とポントコーチが直接触れることが出来た機会でした。
2004年シーズンより宮川氏がコーチ入り、より本格的にポントコーチの理念・理論の導入が始まりました。


 日本フットボール界全体としても、2005年から始まった、「ジョン・ポント・レジェンドクリニック」 のプロデュースや、学生選抜のコーチなど、日本フットボール界全体への啓蒙と知識を広められ、多くのチームが影響と恩恵を受けられたのではないかと思われます。


(08年)6月には武蔵の選手とマネージャーより、病床のポントコーチに手紙と千羽鶴を、Xリーグチームロックブルさんにならい送らせて頂きましたが、皆の願い届かず、7月1日にオハイオのご自宅で永眠されました。
(アメリカでは、著名な方へ哀悼の意を表するとき、その方の名を冠した奨学基金が設立され、その方の名でソーシャル支援がなされることで哀悼の意を表すならわしがあります。 すでに『The John Pont Scholarship Fund』が設立されておりますので、ご関心を持たれた方は現「ROCBULL」さんのHPにて詳細を閲覧ください。)


ここにすべてを記することはできませんが、
「自分と戦い、自分に克つ」
「ハーモニーを持ってチームで戦う」
「エンジョイし、敵をリスペクトし、スマートに(よく考え)、アグレッシブに戦う」
・・・といったようなプレーにも人生にも通じる「ベース」を持つことで、武蔵大学は、フットボールをより深く・楽しく・正しく、プレーすることが出来るようになりました。
武蔵大学は、非常に大きなポントコーチからの恩恵を受けました。


リーグ戦、VS創価大戦でのインターセプト

ポントコーチの教えを胸に、城子氏の熱いプレーの記憶を胸に、


今期戦いたいと思います。


学生援護会ロックブル合宿最終日でのひとコマ。みんながしているのはハインズマントロフィーのポーズ。





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